あの日。3.11

表示は皆、準備中|東日本大震災の翌週の蒲田駅 その他
表示は皆、準備中|東日本大震災の翌週の蒲田駅

今日は3月11日。
ちょうど10年前なんですね、3.11 東日本大震災。

帰宅難民になりました

十年前のあの日、私はどこで何をしていたかと言いますと、YK社というとある中小企業に勤めておりまして、地震が起きた日は東京都大田区の矢口渡のYK社東京実験室におりました。

『なんだ、川崎から多摩川を渡ってスグのところじゃない』
なんて今なら言われそうですけど、まだこのときは転居する前。当時は岐阜県南端、海津市に住んでいました。
毎週月曜日の始発で東京に行って、金曜日の終電で帰ってくる、そんな生活を送っていたときでした。

地震が起きたのは、14:46。デスクで実験データをまとめていたときでした。
ゆっくりした揺れが長い時間続いたのは、今でもはっきりと覚えています。

そこから状況を確認したく、名古屋の本社ですとか、日本橋の東京支店などに電話を入れるものの、なかなかつながらない...
携帯電話も固定電話も、どこにかけても話中か、”大変込み合っております”のアナウンス。

ようやく連絡が取れて、とにかく一刻も早く帰宅すべし、との命が出まして、まずは部下の二人に帰宅してもらい。
施錠だけ確認して、私も実験室を後にしました。
取り急ぎ、矢口渡駅に向かったものの、電車は上りも下りも動いておらず、仕方がなく蒲田駅まで歩くことに。
途中、幹線道路では、大渋滞が発生していましたし、皆さん、携帯電話を片手に公衆電話に列をなしていました。

20分ほどでJR蒲田駅についたものの、当然、電車は動いておらず、駅の構内にすら入れていただけない状況でした。
ハイ、私、あの日は帰宅難民になりました。

徐々に人だかりも大きくなり、さすがに今日は帰れないだろうなと思い、宿を検索。
と思ったのですが、ネットも接続し難い状況で、ようやくつながっても蒲田駅周辺の宿はほぼ満室。

ようやく東急池上線の千鳥町という駅の近くで一室、確保することができました。
とは言え、電車は動いていないので、蒲田から千鳥町まで40分くらいでしょうか、歩いてなんとかたどり着きまして、宿に荷物を置いて一休み。
部下や自宅、両親に電話を入れよう...と思ったのですが、やっぱりつながらない...

今日の晩御飯と明日の朝ごはんも確保しないといけないので、駅近くのコンビニに行くも、食べ物も着替えのシャツも、ほとんどない! かろうじて数個のパンとおにぎりが残っていたので、それを購入。

宿に戻って上司やら部下やら、嫁ハンやら、両親やらと電話で連絡取ろうとするも、やっぱりぜ~んぜん、つながらない。
ようやく静岡の実家につながったので、「連絡は取り続けるけど、静岡からも嫁ハンに連絡取れたらお願い!」と頼んだ私。

とてつもなく長い一日でしたね、あの日は。

そして、翌日。
東急池上線はダイヤが乱れまくりながらも、かろうじて動いていました。蒲田に出てJR線に乗り換えようとしたのですが、まだ復旧していなかったようで、入場制限。

構内のアナウンスで「京急線は動いている」との話でしたので、10分ほど歩いて京急蒲田駅へ。こちらもダイヤは乱れていましたが、とりあえず動いていました。

いつもなら、数分待てばくる電車もこのときばかりは十数分に一本くらいの頻度。もちろん、どの電車も大混雑。行列で私の隣にいた方なんて、待つのに疲れてしゃがみこんでしまいましたもん。私含め、周囲の数名で、大丈夫!大丈夫ですからね!と声をかけあって、知らない方同士励まし合って電車に乗り込みました。

新幹線は、通常ダイヤに近い形で動いていました。すごいですね、日本の大動脈。
そしてようやくの名古屋。近鉄に乗り換えて、ようやく帰ってきたー!と実感した私。
嫁ハンに駅まで迎えに来てもらって、自宅までの帰路、やっとこさ、上司やら部下やら、連絡取りたかった方々、全員と無事の確認ができました。

長かったですよ、この出張。いやホント、精神的に長く感じた。
まさか自分が帰宅困難者になるとは思ってもいなかったし。

余震にも怯えました

3.11の次の週、出張で再び東京実験室入りしたのですが、やっぱりダイヤは乱れまくり。

震災直後の蒲田駅

震災直後の蒲田

この写真は震災の三日後、3月14日のJR蒲田駅。
時刻を知らせる掲示板は、みーんな「準備中」とか「調整中」、もしくは真っ黒。

震災直後の品川駅

震災直後の品川

↑品川駅でも同じ。
東海道線も京浜東北線も横須賀・総武線も...準備中。

地震速報|震災のあった2011年3月下旬、蒲田にて

地震速報|震災のあった2011年3月下旬、蒲田にて

その後も何度も関東に出張で行きましたが、宿では頻繁に余震を感じました。
というか、今でも余震が発生していますからね...ホント、怖いです。

あれから10年、10年も経ったのかという思いはあります。時の流れの速さには驚かされます。
一方で東北の復興はまだ道半ばですよね。まだ10年という思いもあります。

東海地震とか南海地震、そして首都直下型地震など、いつ来てもおかしくないのでしょう。
地震大国日本で生活する以上は、ある程度の備えは必要と感じます。

よく言うのは、3日。三日間、生き延びることができれば、なんらかの助け(救助なり、物資なり)が届く確率が非常に高いとのこと。
一応我が家でも、水、懐中電灯、非常食くらいは用意しています。

 

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