4年前の「あの日」、何してました?
私、当時は岐阜の海津ってところに住んでいまして、職場は隣町の三重県桑名市多度町。
数か月前に開所した某社東京実験室の立ち上げのために月曜日の始発で東京の大田区蒲田に出張、金曜日の終電で帰宅する生活を続けていたときでした。
「あの日」は金曜日でした。蒲田でも結構な揺れがありまして、それから電話がなかなかつながらない...ようやく固定電話で本社や東京支店とつながり、「実験室は全員帰宅します」と伝え、荷物をまとめて駅へ。最寄りの東急多摩川線は不通で駅員さんも「いつ動くかわからない」とのこと。仕方がないから40分ほどかけてJRの蒲田駅へ。
駅前には自分と同様に駅まで歩いてこられた方が多数いて、駅の入り口で立ち尽くしていました。中には駅員さんに詰め寄る方も...。1時間ほど待ったものの、変化が起きる気配もなく、仕方がないからネットで宿を予約。今思うと奇跡ですね、あの状態で宿が取れたのは。蒲田駅から東急池上線で十数分のところでしたけど、当然電車は動いている訳もなく、徒歩で。
途中、幹線道路はいずれも大渋滞。携帯電話がつながらないから、公衆電話には大行列。私も部下やら上司やらに連絡を取ろうとするも、全くつながらない。
1時間ほど歩いてようやく宿まで到着。その日の夕食と次の日の朝食を買いにコンビニに行ったものの、見事なくらい棚には品がなく...とりあえずあるものを購入って感じでしたね。
明くる日、東急線は動いてはいたものの、かなりの間引き運転。蒲田まで出たものの、JRもほとんど電車が走っていない状態。
当然!?新幹線の中では熟睡、気付いたら名古屋でした。
近鉄に乗り換え、弥冨の駅まで嫁ハンに迎えに来て貰って顔を見た瞬間は、なんとも言えない安堵感でしたね。
ようやく部下や上司と電話がつながり、報告しあって帰宅。
改めてテレビやネットで被害の程を知り、驚愕したのを覚えています。
あの時に感じたのは、携帯よりも固定電話の方が少しはつながらいやすいと言うこと。そして、PCメールは比較的つながっていたこと。もちろんこれは case by case なのでしょうけれど、多種多様な通信手段を持っておいた方が助かる可能性が高くなることは間違いないでしょうね。
備えあれば患いなし、備蓄も大切だと思います。とりあえず3日分ほどの水と食料があれば、何かしらの助けがくるまでつなぐことができるんじゃないかな、そんな風に思いました。
あれから4年、まだまだ復興は道半ば...だめだよ日本、こんな状態じゃね。なんとかしなきゃ!!
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