2011年3月11日、14時46分。
私は東京・大田区、矢口渡の近くにいた。
そして、その日を境に「電車が当たり前に走る世界」は消えた。
その日の夜、私は「帰宅難民」になった。
帰宅難民になった夜
明日は3月11日。そう、3.11 東日本大震災があった日です。
もう15年? それとも、まだ15年?? とにかく、あの日から15年という月日が流れたことは紛れもない事実です。
皆さん、あの日・あのとき、どこで何をされていましたか?
あの日、私はとある中小企業に勤めておりまして、地震が起きた瞬間は東京都大田区、矢口渡のYK社東京実験室におりました。
『なんだ、川崎在住なんだから、多摩川を渡ってスグのところじゃない』
なんて今なら言われそうですけど、まだこのときは川崎に引っ越す前の話。当時は岐阜県の海津市に住んでいました。
毎週月曜日の始発で東京に行って、金曜日の終電で帰ってくる、そんな生活を毎週送っていたときでした。
地震が起きたのは、14:46。デスクで実験データをまとめてました。
ゆっくりした揺れが長い時間続いたのは、今でもはっきりと覚えています。
そこから状況を確認したく、名古屋の本社や日本橋の東京支店などに電話を入れました。
しかし、なかなかつながりません。
携帯電話も固定電話も、どこにかけても話中。
もしくは「大変込み合っております」のアナウンスでした。
ようやく東京支店と連絡が取れ、総務担当の役員からとにかく一刻も早く帰宅すべし、との命が出まして、まずは部下の二人に帰宅してもらいました。
その後、片づけ・安全確認して、私も実験室を後にしました。
取り急ぎ向かった先は、東急多摩川線の矢口渡駅。ところが、上りも下りもいつまでたっても電車が来ない。
仕方がないのでJRの蒲田駅まで歩くことに。
途中、幹線道路では、車の大渋滞が発生していました。また徒歩の皆さんは、携帯電話を片手に公衆電話に列をなしていました。
20分ほどでJR蒲田駅についたものの当然、電車は動いておらず、駅の構内にすら入れていただけない状況でした。
ハイ、私、あの日は帰宅難民になりました。
徐々に人だかりも大きくなり、さすがに今日は帰れないだろうなと思い、宿を検索。
と思ったのですが、ネットも接続し難い状況で、ようやくつながっても蒲田駅周辺の宿はほぼ満室。
今思えば当たり前なのですが、まだこのときの私、何が起きているのか、把握できていない訳ですよ。でも状況的に大変なことなのだろうなというのを、少しずつ理解し始めている、そんな感じでした。
ようやく奇跡的にネットが一瞬だけつながり、東急池上線の千鳥町という駅の近くで一室、確保することができました。
とは言え、電車は動いていないので、蒲田から千鳥町まで40分くらいでしょうか、歩いて行くことに。
やはり道路は大渋滞。みなさん、携帯を手にしながら歩いている状況。
なんとか千鳥町の宿に辿り着きまして、荷物を置いて一休み。
和室の小さな宿でした。
そして、ふとんを見た瞬間。
正直、泣きそうになりました。
で、部下や自宅、両親に電話を入れよう...と思ったのですが、やっぱりつながらない...
今日の晩御飯と明日の朝ごはんも確保しないといけないので、駅近くのコンビニに行くも、食べ物も着替えのシャツも、ほとんどない! かろうじて数個のパンとおにぎりが残っていたので、それを購入。
宿に戻りテレビをつけて、東北でとてつもなく大きな地震が起きたことをようやく理解できた私。
再び上司やら部下やら、嫁ハンやら、両親やらと電話で連絡取ろうとするも、やっぱりぜ~んぜん、つながらない。
ようやく静岡の実家につながったので、「連絡は取り続けるけど、静岡からも嫁ハンに連絡取れたらお願い!」と頼んだ私。
とてつもなく長い一日でしたね、あの日は。
這這の体で帰宅
そして、翌日。テレビで交通情報を見ると、大混乱ではあるものの、動いている路線もある模様。
東急池上線はダイヤが乱れまくりながらも、かろうじて動いていました。蒲田に出てJR線に乗り換えようとしたのですが、まだ復旧していなかったようで、入場制限。
構内のアナウンスで『京急線は動いている』との話でしたので、10分ほど歩いて京急蒲田駅へ。こちらもダイヤは乱れていましたが、とりあえず動いていました。
いつもなら、数分待てばくる電車もこのときばかりは十数分に一本くらいの頻度。もちろん、どの電車も大混雑。行列で私の隣にいた方なんて、待つのに疲れてしゃがみこんでしまいましたもん。私含め、周囲の数名で、大丈夫!大丈夫ですからね!と声をかけあって、知らない方同士励まし合って電車に乗り込みました。
多少時間はかかりましたが、無事に品川駅に到着。
岐阜県の自宅に帰るべく、JRに乗り換えます。東海道新幹線は、通常ダイヤに近い形で動いていました。すごいですね、日本の大動脈。
新幹線に乗り、そしてようやくの名古屋。近鉄に乗り換えて、ようやく帰ってきたー!と実感した私。
嫁ハンに駅まで迎えに来てもらって、自宅までの帰路、やっとこさ、上司やら部下やら、連絡取りたかった方々、全員と無事の確認ができました。
長かったですよ、この出張。いやホント、精神的に長く感じました。
まさか、自分が帰宅困難者になるとは思ってもいなかったし。
余震に怯えた出張
3.11の次の週、出張で再び東京実験室入りしたのですが、やっぱりダイヤは乱れまくり。
この写真は震災の三日後、3月14日のJR品川駅。
品川駅で新幹線から在来線に乗り換えるも、東海道線も京浜東北線も横須賀・総武線も...時刻表示はみーんな”準備中”とか”調整中”、もしくは真っ黒。
京浜東北線の蒲田駅も、こんな感じ。
”準備中”の表示ばかりでした。
その後も何度も関東に出張で行きましたが、宿では頻繁に余震を感じました。
というか、今でも時折、余震が発生していますからね...ホント、怖いです。
あれから15年、15年も経ったのかという思いはあります。時の流れの速さには驚かされます。
一方で東北は復興できたか?というと、まだ道半ばですよね。まだ15年という思いもあります。
南海トラフ地震はいつ来てもおかしくありません。そして首都直下型地震も、来てもおかしくないのでしょう。
地震大国日本で生活する以上は、ある程度の備えは必要と感じます。
よく言うのは、3日。三日間、生き延びることができれば、なんらかの助け(救助なり、物資なり)が届く確率が非常に高いとのこと。
あの日、「電車が当たり前に走る世界」は突然消えました。
だからこそ、次の災害に備えることだけは、忘れないようにしたいと思っています。
あの夜、私を助けてくれた場所があります。
千鳥町にあった、小さな宿「旅館観月」です。
和室に案内され、ふとんを見た瞬間、正直、泣きそうになりました。
あのとき、布団で眠れる場所があることが、どれほどありがたかったか。
いま、その場所にはマンションが建っています。
けれど、2011年3月11日の夜、あの宿で感じた安堵は、今でも忘れることができません。
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