2011年の3月11日、東日本大震災。
当時私は岐阜県の海津市と言うところに住んでいました。
その当時の会社が大田区(矢口渡)東京実験室を開所したばかりと言うことで、スムーズに立ち上げるべく、月曜の始発で行って、金曜日の終電で帰ってくる、そんな生活を送っていました。
で、3.11。あの日は金曜日、私は矢口渡の東京実験室にいました。
実験が一段落して、デスクワークをしているときにグラグラッときて、長い間揺れが続いたのは、今も覚えています。
そこからが大変で、とにかく電話がつながらない。携帯電話なんか、全然まったくって言って良いくらい。
かろうじて固定電話から、相手も固定電話と言う場所なら何か所か連絡が取れて、名古屋の本社、新日本橋の東京支店など、各所と連絡取り合って、とにかく早めに帰宅せよ、と言うことになったワケ。
あと、電子メールは比較的、連絡取り易かったかな。もちろん、携帯じゃなくてPCのメールですけど。
で、片付けやらナニやらして16時くらいの実験室を閉めて東急多摩川線を目指した私。
駅に着いたものの、改札口は閉まっていて、前には行列...そして動く気配はなし。
30分ほど待ったものの、これは相当動かないとみて、JRの蒲田駅を目指しました。
私と同じように歩く方、多数。幹線道路はアッチに行くのも、コッチに行くのも渋滞。携帯電話を片手に公衆電話に行列をつくっている光景がアチコチでみられました。
なんとなく想像はしていたものの、JR蒲田駅西口も閉ざされていました。
改札が閉ざされているとか言う状況ではなく、そもそも駅のビルに入れない状態で、駅ビルの前に黒山のひとだかり。その中の一人が私って感じ。
駅員さんは、ときどき来るものの、危険があるから建物には入れない、何時に復旧するのかわからないと、釈然としない返答ばかり。今思うと、そりゃ仕方ないと思うのですが、当時は何が起きているのか、正確に把握できていませんでしたからね。
1時間くらい待ったものの、復旧する気配はなし。
こりゃ帰れないなと判断して、宿を探すも、蒲田の駅前は全て満室。
かろうじて、池上線の千鳥町の駅前、民宿っぽいお宿があって、奇跡的にそこを確保できました。今になって振り返ると、本当に奇跡ですね。
蒲田から小一時間歩いて千鳥町へ。やっぱり道路は大渋滞。そして携帯片手に公衆電話の列...。
千鳥町について、とりあえず宿にチェックイン。和室で良い雰囲気の部屋でした。
まずは夕食と明日の朝食、と思って駅前のコンビニに行ったものの、食べ物がほとんどない!かろうじて数個のパンとおにぎりが残っていたので、それを購入。
宿に戻って上司やら部下やら、嫁ハンやら、両親やらと連絡取ろうとするも、ぜ~んぜん、つながらない。
ようやく静岡の実家につながったので、「連絡は入れるけど、静岡からも嫁ハンに連絡取れたらお願い!」と頼んだ私。
余談ですが、このときに宿泊した宿、実は前から泊まってみたいと思っていたお宿だったんです。都会にありながら、民宿って感じの佇まい、部屋にユニットバスがあるのですが、大浴場もあって、なんか素敵だなって思っていたんです。まぁ、その素敵さを感じ取る余裕は、当時の私にはありませんでしたが。
さらに余談となりますが、このお宿、数年前に閉館してしまいました。
そして翌日。
ダイヤは乱れまくりながらも、東急池上線、かろうじて動いていました。蒲田に出てJR線に乗り換えようとするも、まだ復旧していなかったようで、入場制限。
京急線は動いているって言うアナウンスがあったので、15分ほど歩いて京急の蒲田駅へ。こちらもダイヤは乱れていましたが、とりあえず動いていました。
いつもなら、数分待てばくる電車もこのときばかりは十数分に一本くらいの頻度。もちろん、どの電車も大混雑。行列で私の隣にいた方なんて、待つのに疲れてしゃがみこんでしまいましたもん。私含め、周囲の数名で、大丈夫!大丈夫ですからね!と声をかけあって電車に乗り込みました。
いつもなら下り電車に乗り込むのですが、この日は在来線&私鉄は時間が読めないので、上り電車に乗って品川へ。
新幹線は、通常ダイヤに近い形で動いていました。すごいね、日本の大動脈。
そしてようやくの名古屋。近鉄に乗り換えて、ようやく帰ってきたー!と実感した私。
嫁ハンに駅まで迎えに来てもらって、自宅までの帰路、やっとこさ、上司やら部下やら、連絡取りたかった方々、全員と無事の確認ができました。
長かったですよ、この出張。いやホント、精神的に長く感じた。
まさか自分が帰宅困難者になるとは思ってもいなかったし。
次の週に出張で再び東京実験室入りしたのですが、やっぱりダイヤは乱れまくり。

3.11回顧
時刻を知らせる掲示板は、みーんな「調整中」でしたし。
宿では何度か余震も感じました。
東海地震とか南海地震、そして首都直下型地震など、いつ来てもおかしくないのでしょうね。
地震大国日本で生活する以上は、ある程度の備えは必要と感じます。
よく言うのは、3日。三日間、生き延びることができれば、なんらかの助け(救助なり、物資なり)が届く確率が非常に高いとのこと。
一応我が家でも、水、懐中電灯、非常食くらいは用意しています。
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